法人設立への思い

代表理事 藤野 彰

 2020年6月、我々は一般社団法人 国際麻薬情報フォーラム(International Drug Intelligence Forum: IDIF)を設立いたしました。

 私は1980年に国連に採用され、ウィーンへ赴任して、国際麻薬規制に携わる人生が始まりました。同じ年に、我が社団法人の副代表理事は厚生省(当時)に採用され、麻薬取締官としての人生を歩み始めたのでした。

 40年後、期せずして我々の人生が交差し、進むべき道に共鳴し、互いに現状への危機感を覚えて、この社団法人の設立に至りました。我々の間では「ともに麻薬人生を駆け抜けましょう」と言い交わしています。

 私は、ウィーンとバンコクに赴任したのち、国連を定年退官し、30年ぶりに日本へ居を移してからも、薬物対策に関わるいくつかの組織に関与し、今日に至ります。この社団法人を設立してまもなく、公益財団法人 麻薬・覚せい剤乱用防止センターの理事長にも選出されました。

 歴史をひもとけば、不正な供給が乱用を引き起こしてきた事例には事欠きません。逆もまた真でした。娯楽目的の薬物使用を許す環境が生まれれば、組織犯罪はそこにつけ込んできたのです。誤った知識・情報の氾濫、合法化を許容する少数の国々の動き、国際組織犯罪の浸透、そのひとつひとつに危機感を覚えます。

 今、我々は岐路に立っています。異なった役割を担うそれぞれの組織が、いわば有機的につながり合い、あたかもパズルの一片を埋めるようにして、手を携えて進んで行かなければならないときです。一国だけ、ひとつの組織の努力だけで完結することではありません。同じ方向を向いて進んでいるのですから。

 近年、薬物問題に関連して活動するいくつもの組織があります。関連する諸団体と語り合い、最新の知見と正確な情報を発信していこうと考えています。日本からアジアへ、そして世界へと。世界各地でこの思いに共鳴するかつての同僚・知人たちが、情報提供に協力してくれています。

 国際行政における経験と視点、国内のあらゆる取締まり現場を経て、国際捜査へも関与して得た知見、それらを反映した専門家集団としての情報分析と発信を目指します。我々だからこそできることがあると考えます。行政・取締まりに加え、医療関係者、乱用防止教育に携わる専門家などとも連携していきます。

 縦糸と横糸で織り成すように、新たな航海に乗り出す船の帆を紡いでいきたいと思います。時代に即した道を探り、志ある皆様方と一緒に歩みつつ。

副代表理事就任挨拶に代えて

<フェンタニル・クライシス:fentanyl crisis>

副代表理事 瀬戸 晴海

2002年10月に発生した「モスクワ劇場事件」を記憶されている方も多いと思います。

チェチェン共和国の独立武装派勢力42名が、モスクワ劇場で観客992名を人質に取り、ロシア軍のチェチェン共和国からの撤退を要求。受け入れられない場合は、人質を殺害、自分たちも爆弾を使って劇場ごと爆破すると警告しました。発生3日後の早朝、FSB(※ロシア連邦保安庁)の特殊部隊が突入し短時間で制圧、武装勢力は全員射殺されました。同時に129名の人質も亡くなるという悲惨な結末を招いています。このとき特殊部隊は特殊なガスを使用しています。劇場にいた武装勢力の大半はこのガスによって数秒で昏睡、ロシア保健省は「KOLOKO-1」というフェンタニル系薬物を主成分とするガスを使用したと発表しました。フェンタニルはご存じのとおり合成オピオイドの一種で医療にも使われる麻酔性鎮痛剤です。その強度はモルヒネの約100倍とされています。多くの誘導体(※ある化合物小部分の構造上の変化によってできる化合物)が存在し、中には桁違いの危険性をもつものも存在します。〝KOLOKO-1の正体は如何に〟-2012年に英国の研究者が生存者の衣服等を分析した結果、フェンタニル誘導体の「カルフェンタニル」と「レミフェンタニル」が検出されました。カルフェンタニルはモルヒネの約10000倍(フェンタニルの約100倍)という極めて強度の高いもので、大型動物の固定用(麻酔用)に使われるのみです。レミフェンタニルは麻酔時の短時間作用型鎮痛剤としてわが国でも医療使用されていますが、それでもモルヒネの約2100倍の強度があります。

<フェンタニル>

フェンタニルは経皮、静脈内、皮下、硬膜外等へ投与することができ、モルヒネや他のオピオイドと比較して即効性があるため極めて有効価値の高い医薬品です。その一方で危険な薬物であるところから、国連は麻薬に関する単一条約で、フェンタニル及び誘導体(以下、フェンタニル類)を規制、わが国では27物質を麻薬、4物質を指定薬物として規制しています(2021.2現在)。医薬品として使われているのはフェンタニルとレミフェンタニルの2種類です。皮膚吸収も良好で、静脈内注射以外に貼付剤(※パッチ・テープ)としても使われています。一方で致死量は2mg(塩20粒程度)と極めて微量とされています。

フェンタニルを遙かに超える強度を持つ、誘導体のカルフェンタニル、レミフェンタニルをガスとして噴射するとどうなるか、結果はモスクワ劇場事件のとおりです。フェンタニル類は有効な医薬品として使用される一方、その毒性の強さから、米国防省と国家安全保障省が大量破壊兵器に指定することを検討中です。DEA(※米国司法省麻薬取締局)やRCMP(※王立カナダ騎馬警察隊)の特別捜査官たちは、フェンタニル関連事件で現場に突入する際は、専用の防護服・マスクを着用しフェンタニル拮抗剤を携行していきます。薬物捜査もここまできたか、と現地を視察して驚愕したことを思い出します。

<米国におけるフェンタニルクライシス>

米国では、2005年頃からメキシコの密造所で製造されたフェンタニルがヘロインの増量剤、代替薬として乱用され過剰摂取による死亡例が増加しました。密造所が壊滅されると死者数は一旦減少しましたが、その後再びフェンタニル類の密造が増加、多くは中国、メキシコから米国へ密輸されたものです。米国における密造フェンタニル類の押収件数は、2013年には1000件程度でしたが、2015年には13000件以上に跳ね上がり、その後も増加中です。米国国家人口動態統計システムが2016年の死亡データを分析したところオピオイド関連過剰摂取死42,249件のうち、19,423件(45.9%)にフェンタニルが関係しており、17,087件(40.4%)は処方オピオイド、15,469件(36.6%)はヘロインが関与したものでした。2010年には14.3%しか関与していませんでしたので、大幅増になります。

フェンタニルが他の薬物に混ぜられて死を招いたと思われるのが、コカイン過剰摂取死の40.3%、ベンゾジアゼピン(※睡眠薬・抗不安薬等に使用)過剰摂取死の31%、抗うつ剤過剰摂取死の20.8%にあったということです。死亡した人はフェンタニルが混ぜられているとは知らずに摂取した可能性が高いと思われます。現在、米国は緊急事態宣言を発し、中国に対して製造を規制するよう強く求めていますが、一向に収束の気配は窺えない状況です。

<今後の課題>

2014年、池袋や福岡市・天神で制御を失った車両が次々と歩行者を跳ね飛ばし、先行車両に猛然と突っ込むなどして大勢の死傷者を出しましたこれらの事件の引き金となったのは、皆さんも知ってのとおり、当時爆発的に流行した合法ハーブ等と称された「危険ドラッグ」です。14年だけでも使用した危険ドラッグのせいで112人が死亡、わが国の薬物犯罪史上例のない事態となりました。中国等から大麻に似た作用を持つ物質「合成カンナビノイド類」が輸入され、これがハーブに混ぜられ街頭の店舗やインターネットを介して安価で販売されていたのは記憶に新しいことです。中には、大麻の100~300倍の強度を持つ合成カンナビノイドもありました。吸引後数秒から数分でカタレプシー状態(※一定の姿勢から動けなくなる症状=強硬症)に陥り身体が硬直、意識も混濁します。この状態で車を運転するとアクセルをベタ踏みしたまま暴走してしまいます。呼吸障害や高体温症等で急死した使用者も多数います。――これは教訓としなければなりません。もしフェンタニル類が上陸したらどうなるか。その危険性は合成カンナビノイドを凌駕します。密造国は目と鼻の先です。覚醒剤やコカインに混ぜられて密輸されることも十分に考えられるでしょう。インターネットで販売される可能性も否定できません。備えなければなりません。そのためには新鮮で正確な情報が必要です。

<社団の設立>

私は、1980年に厚生省(現厚生労働省)の麻薬取締官に採用され、大阪西成の釜ヶ崎を皮切りに薬物専従捜査官としての人生を歩むこととなりました。折しも同じ年に当社団の代表理事は国連に採用されINCB(※国際麻薬統制委員会)事務局やUNODC(※国連薬物・犯罪事務所)で国際麻薬の規制や監視にかかわることとなります。西成とウィーンは全くの別世界です。ところが月日を重ね、私たちの接点は生まれます。薬物問題は世界の共通課題です。取締りの仕事は自ずと世界へ向かいます。一方で世界を股にかける代表理事の視線は現場へ注がれます。そこに邂逅と同感・共鳴が芽生え、この社団法人の設立に至りました。〝麻薬は医療にとって不可欠なもの〟私たちは末長く麻薬と共存していかなければなりません。一方でその乱用を防止することも重要です。私たちは、長年培ったスキルと経験、ネットワークを生かし、国際規制される麻薬等薬物や前駆物質(※原料物質等)について、国内外の事象や諸問題、政策・規制に関する最新の情報を幅広く収集し分析・評価して、その結果をわかりやすく発信いたします。その一例として本稿でフェンタニルを紹介させていただきました。麻薬と正しく共存する社会の実現を目指して、広く皆様方と情報と問題意識を共有できることを願っております。